散歩道 |
||
|---|---|---|
|
||
| スポンサードリンク |
|||||||||||||
健康維持で始めたウォーキングもただ歩くだけでは飽きてくる。幸いこの地域は歴史的に見ても面白いところが多く、史跡を巡りながらの散策を取り入れています。ウォーキングにはその都度、時計方向のコースを設定しています。勿論、針軸は自宅です。そして往復5〜7キロを目標に散歩を楽しんでいます。 散歩道の歴史については、予め歩く前に少々調べてから出掛けるのですが、史実と地域の現状との違いを検証するのに戸惑います。今は全国のどこの都市部も同じように郊外が開発され、田畑や野山も市街・宅地化されています。 環境や景観変化も進歩の通過点なら仕方がないことです。少しでも往古の佇まいが残っていれば有難いことです。埃と泥濘の道は広く美しくなり、山谷が無くなり、縦横の新しい道はウォーキングには便利になりました。幸い自分の記憶には半世紀以上の記憶は残っています。時折、「浦島太郎」にはなりますが、 散歩道の歴史的景観も変化した周辺も、おおよそ符号させることが出来ます。ここは金さん・銀さんの生まれ故郷のすぐ近くです。うねりのように続いていた小高い里山は消え、見渡す限り住宅の波になっています。 この5・60年の変移と過去数百年間の進歩を比較するだけでも、現在の進歩速度は遥かに想像を超えています。街中の野原、田畑や森や林は見事に宅地に変わり、古い木造家屋も無くなり緑も減り、全てが一変しております。郊外の自然は、四季折々の叙情歌の世界でもありましたが、全てを便利さとの交換で失くし、もう後戻りは永久に出来ません。自然は無くなり、子孫に美しい野山が残せなかったのは残念ですが、福祉や医療と快適な社会環境・進歩を加速させる科学技術、車や交通道路網など得たものも多大です。
時計方向で示せば、旧東海道の鳴海宿は南西7時方向:2,5キロです。鎌倉古道は西へ数百米、6時方向:3キロ先には戦国時代でも超有名な桶狭間古戦場があります。インターネットで歴史ホームページを見る度に、桶狭間の戦いだけでも新しい解釈が多く、そのコースや新説内容で胸が躍ります。その都度、戦跡を歩けるのです。ただ霊現象を信じない方には笑われますが、古戦場は無念で亡くなった数千の魂が葬ってあります。戦跡は訪れる人も無く、何時も一人のみ、暗い木々の多い砦跡は時折怖くてすくむときもあります。 壇ノ浦、倶利伽羅峠、関が原、大阪城など全国の古代の戦跡は無数です。多くの戦死者が一箇所に葬られている戦人塚だけは怖いので行きません。私は霊を受けやすく長年苦しんだこともあり、今次大戦の空襲地、戦跡巡りはカミさんに堅く禁止されています。桶狭間古戦場の鷲津砦の近くも宅地化されています。知り合いが住んでいますが30年ほど前、傷だらけの武者の亡霊が出て驚いたと聞いたことがあります。おおよそ霊は400年で消えるそうですが、その後念入りにお祓いをして貰ったそうです。 戦国時代の大量の戦死者の上に文明が築かれ知らないだけです。ましてや開発で埋まってしまった墳墓や考古学的に重要な遺跡も、多くは宅地造成で無くなっています。民間の造成中では見つかっても、埋蔵文化機関などへ届けないと聞かれた人も見えましょう。とにかく家を購入する方は、地元の方に念入りに確かめるのが一番です。宅地に史跡が埋没しているようでしたら、安いだけで飛びつかないことです。原因不明の現象でお子さんが脳障害になり、取り返しの付かないことになった方も知っています。
調べたら昔、塚や祠があったようで、開発で宅地になったそうです。やはり不思議な現象や兆候はあったそうですが、家庭の事情で引越しが出来ないのです。世の中には多いようで、テレビの心霊番組だけではないようです。知らなくて自分も3年間苦しんだことがあり、そんな霊障も信じるようになりました。幸い良い霊の要求だったので、処置を施したら痛み苦しみが消えました。それが遍路回りの切っ掛けにもなっています。史跡巡りは、戦跡を外し街道巡りや博物館、縄文・弥生の遺跡や陶地探訪などが良い。 地下鉄も近くて便利な私の近辺では、名古屋城周辺、尾張中村(秀吉公)界隈があります。近くの私鉄を利用すれば徳川300年の聖地、岡崎城もすぐ、資料館は歴史的説明や展示品も多く、組織の機能が如何に重要か良く解ります。尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、美濃は戦国・権謀術数の表舞台です。インターネットで幾らでも歴史資料は得られます。 ほんの少し足を伸ばせば岐阜城、三方が原、長篠、小牧長久手と、この地域の戦跡は中世日本の歴史を深く勉強できるところです。 西へ1キロ行けば、坂道になり川に辿り、旧東海道です。40数年以前は坂道も急で、崖もありました。泉も湧いていたそうです。江戸も前期までは海岸だったそうで、旧東海道は干潟沿いでした。それから海岸沿いに南下すれ塩田もあったそうで地名になっています。448年前は旧東海道は無く(入り江の入り口付近で対岸まで渡し船があった)海沿いの鎌倉街道を利用していたのです。今でも対岸(もう内陸深く地下鉄の駅になっている)の船着き場跡には樹齢1,000年を越す楠木が堂々と茂っている。幹周りが凄い、びっくりする。
歴史を見てきたのです。40数年以前は遠くから良く見えたものだが、今は周辺の建物で隠れて上部のみ僅かに見える。平安後期から旧東海道の出来る以前の鎌倉街道の散策も楽しんでいる。無くなり併合されたりで往古の面影は格段に薄れているが、これもインターネットで幾らでも歴史資料は得られます。写真や地図もあり素晴らしいHPもあります。それを印刷させて頂き、巡り散策しています。今の街道は判りにくい、大きな病院の敷地内になっていたり、工場のど真ん中を通り抜けたり、突然消えたりする。 今でも残る道は車が擦れ違うのがやっと。在原の業平、源の頼朝・義経、今川義元の遠征、秀吉の小田原征伐、織田:徳川の武者達も盛んに往来したのは鎌倉街道です。400年以前の日本国内は命懸けの旅、今の海外旅行と感覚は同じではと考えるだけで夢は広がる。数万の大軍は細い街道をどう移動したのだろうか?糧秣(食料)や宿泊は、資金調達、情報収集、兵站調整、組織をどう機能させていたのか?想いは膨らんで行く。歴史を調べ楽しむとき、そんな好奇心や疑問が湧き出てまいります。 歴史の地域ウオーキング、次ページでは織田信長公が桶狭間合戦の地に至る経路を歩き調べてみます。徳川幕府が開いた旧東海道も凄い魅力の街道です(1604年に設けられた上の一里塚は鳴海宿から西2キロにある)。国道一号線と併合されていても、街道はまだまだ往時を偲ばせるものが豊富にあり、整備も管理もされています。伊勢湾台風や松喰い虫で倒れた松並木もありますが、愛知県内だけでも旅人が夏の暑さから涼を求めた、立派な大松が街道の両側に現在でも多く残っています。 |
|||||||||||||
| スポンサードリンク |
|||||||||||||
Copyright (C) TOPページに戻る All Rights Reserved |
|||||||||||||