尾張・鳴海 |
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■「東海道・鳴海宿(名古屋市緑区)と桶狭間の戦い」 |
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1687年11月:(320年前)松尾芭蕉翁、存命中に唯一作られた「千鳥塚」が現在の三王山にあります。 この塚は俳文学史上、唯一の超一級史跡です。 ※全国でもここだけと言う貴重なもの 芭蕉翁の筆による。自らも基礎の小石を運んだとも。建立時も今も塚のすぐ西下は東海道、元禄の頃の鳴海潟はもう徐々に沖に追いやられて来ていました。ここは 昔を知ることのできる、私の散歩道の休憩場所です。 一時は草が生い茂るところでしたが、今は整備されて綺麗になっている。遥かを想えば隔世の感、さぞや江戸初期・以前は絶景だったろう。瞼を閉じれば潮騒が聞こえる様です。 鎌倉・室町から戦国時代、この辺りは海ばかり。熱田浜からの鎌倉中道、また井戸田村から鎌倉上道と海を渡れば、巨松の生い茂った松巨嶋(まつこじま)。島を横切り再び干潟を野並八劔社(天白区野並3丁目)船着場へ渡り鎌倉街道へ。 熱田浜からの鎌倉下道は笠寺観音〜古鳴海八幡社(緑区鳴海町嫁ヶ茶屋)。年魚市潟(あゆちがた)尾張鳴海潟の美しさは、万葉集など歌人に多く詠まれています。潮騒の浜も400年間の干拓で見る影も無く変わった。
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![]() 過ってここは太古から美しい遠浅の鳴海干潟であったのです。 絵の中央を乙の字に東海道が通っている。 天白川に掛かる橋の辺りの松は、昭和30年代にはまだ残っていた。 旧鳴海潟の真下(野並〜鶴里)の地下鉄工事は軟弱な地盤のため 難工事、当時ではシールド工法で世界最大のトンネルが掘られた。
(写真、クリックで拡大)
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■古絵図から歴史を辿る 大きな絵図は天保15年(1845年)小田切春江『尾張名所図会』の鳴海の風景です。私はこの地に来て既に40幾年経過しました。出生地も教育を終えた地も違いますが、もう完全にふるさとの一員になっております。若い頃に来たこともあり、古い街道は知っています。越してきた頃は市街地は西から西北方面でした。 川の流域は田んぼばかりで絵図と余り変わりは無かった。西北の川を渡れば急に空気まで冷たく感じました。それほど里山が延々続く自然のままでしたが、今は途切れることの無いほどの人家が東西南北に続いています。都市部に見られる郊外型の典型でしょうか。キジも野うさぎもイタチも野鳥も居なくなりました。 しかし当時に比較すれば何もかもが便利で快適な生活圏になっております。勿論、東に続く丘陵、山間の田畑、ため池、小川、細い滝、山つつじと食虫植物の群生、雪柳、水仙、山道のわらび、雑木林、どんぐり、巨桜・松林などなど全て無くなりました。当時のゴミ山(今は360度眺望の公園)から遥かに港が見えました。 秋になると秋アカネの大群が帯状になり里地に下って行く、それがつい数十年前のことなのです。上の絵図は芭蕉翁が三王山に千鳥塚を立てたときから、既に159年経過した江戸後期の景観です。既に干拓:新田もできています。芭蕉翁が俳句を読んだときは「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」まだ干潟で千鳥が鳴いていたのです。(最上段の公園レリーフ) 往時の星崎は西の字から1キロ真西の内海に浮かぶ松巨嶋(まつこじま)の岬でした。今は松巨嶋も内陸に深く入り島は消え、僅かな起伏の街の中になっています。国道一号線が脇を通っています。この図を見ていると、およそ448年前の桶狭間の戦いを想像してしまいます。信長公は戦場まで、どの経路を走ったのだろうか? 清洲から善照寺砦までの動向に興味が尽きません。戦国時代、熱田神宮の前は風光明媚な年魚市潟でした。南東の松巨嶋までは干潟で渡し、よびつぎ浜から松巨嶋を横切ればまた対岸の古鳴海まで干潟、満潮時には渡し船か鎌倉上道へ迂回、干潮時には浅瀬を渡れた。ここで永禄3年(1560年)合戦当日を辿ってみましょう。 絵図の東海道53次はまだ整備されていない(1601年開道)永禄3年5月19日信長公は居城の清洲を午前4時出発する。そして午前8時熱田に到着する。熱田の満潮時刻は午前5時、伝承では海岸伝いのルートを避け陸路を駆けたとか。では午前10時の善照寺砦着までの2時間の時間経路だとすると推測できる。
おそらく熱田から上道(鎌倉街道)井戸田村、八事南・中根から島田の海岸と迂回したのでしょうか、当時、入り江は三王山から北にまだ3km入っていたのです。島田から海岸脇を南下、渡船場の古鳴海(現在の名古屋市地下鉄・野並駅南 )に到着、坂上がりの鎌倉街道に入ったか、それとも海岸沿いを2km下り丹下砦まで向かったか? 午前10時丹下砦(三王山から500m南)に立ち寄り、約1km南東の善照寺砦へ着陣、その前後に丸根・鷲津砦の陥落を知る。信長公は既に熱田の浜で丸根・鷲津砦方面に煙が立ち上るのを見ている(上の想像図)。援軍の要請も受けており、陥落は承知していたものと思われる。熱田で浜の漁師に天候の成り行きを問いかけたとも言われている。 |
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