尾張・鳴海

尾張・鳴海の歴史

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尾張・鳴海の歴史:芭蕉翁と東海道・鳴海宿
、そして戦場桶狭間!
  〜三部構成

@ 地域の今昔を知る A桶狭間の戦いB古戦場を辿る道

東海道・鳴海宿(名古屋市緑区)と桶狭間の戦い
三王山の千鳥塚(千句塚公園内)
1687年11月:(320年前)松尾芭蕉翁、存命中に唯一作られた「千鳥塚」が現在の三王山にあります。 この塚は俳文学史上、唯一の
超一級史跡です。

全国でもここだけと言う貴重なもの
芭蕉翁の筆による。自らも基礎の小石を運んだとも。建立時も今も塚のすぐ西下は東海道、元禄の頃の鳴海潟はもう徐々に沖に追いやられて来ていました。ここはを知ることのできる、私の散歩道の休憩場所です。

一時は草が生い茂るところでしたが、今は整備されて綺麗になっている。遥かを想えば隔世の感、さぞや江戸初期・以前は絶景だったろう。瞼を閉じれば潮騒が聞こえる様です。

鎌倉・室町から戦国時代、この辺りは海ばかり。熱田浜からの鎌倉中道、また井戸田村から鎌倉上道と海を渡れば、巨松の生い茂った松巨嶋(まつこじま)。島を横切り再び干潟を野並八劔社(天白区野並3丁目)船着場へ渡り鎌倉街道へ。

熱田浜からの鎌倉下道は笠寺観音〜古鳴海八幡社(緑区鳴海町嫁ヶ茶屋)。年魚市潟(あゆちがた)尾張鳴海潟の美しさは、万葉集など歌人に多く詠まれています。潮騒の浜も400年間の干拓で見る影も無く変わった。

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現在の千鳥塚(千句塚公園)、9月下旬、塚の周りは彼岸花で一杯に覆われて、とても綺麗になります。塚の背景には立派な榎木があります。



過ってここは太古から美しい遠浅の鳴海干潟であったのです。
絵の中央を乙の字に東海道が通っている。
天白川に掛かる橋の辺りの松は、昭和30年代にはまだ残っていた。
旧鳴海潟の真下(野並〜鶴里)の地下鉄工事は軟弱な地盤のため
難工事、当時ではシールド工法で世界最大のトンネルが掘られた。
松尾芭蕉翁は計五度、鳴海に逗留して歓待されており、お気に入りの地でもあった。近くの笠寺観音境内にも、同類の碑が、剣豪:宮本武蔵の石碑と並んでいます。下の210年前:江戸中期の絵図では、既に年魚市潟も鳴海潟も星崎の塩田も新田と葦の湿原(現名古屋市南区・港区)に変貌しつつあります。

芭蕉翁は千鳥塚建立の二年後(新暦1689年5月)に奥の細道に旅立ちました。鳴海城跡手前の誓願寺には元禄7年(1694年)芭蕉翁・没後1ヶ月で建立されたとも言われる芭蕉供養塔(供養塔としては全国で最古)や芭蕉堂(1858年建立)があります。東海道の鳴海宿は芭蕉翁と俳諧に、とてもゆかりのある地なのです。

写真、クリックで拡大

211年前の千鳥塚周辺絵図です。
図の右下に
松尾芭蕉翁:千鳥塚三王山の頂上にぽつんと佇んでいます。塚のすぐ左手に東海道沿いの松並木が見えます。天保15年の絵とは変化が少ない。しかし下の現代写真と比べて見ると、その変貌はオドロキ

江戸初期の海岸線と現在の地図
尾張南部、弥富、飛島、蟹江、知多の干拓は江戸初期〜平成に亘って行われた。先人は塩害、洪水で大変な苦労をしている。新田開拓を束ねた長の名が、これらの干拓地域に呼称と地町名となって今も多く残っている。
現在の三王山から北を見る。 ここも古くは干潟沿い、2,000年以上前の弥生時代、
壕に囲まれた集落があった。公園整備の調査で、土器、住居跡が多く発見される。
2007/9〜12月・散歩のコースにある見晴台考古館にて展示されていました。
三王山・千句塚公園:西南方面、真下が旧東海道!前方は昔の年魚市潟方面。
今は10キロ近くの内陸部になっている。
同じ場所の古絵図は慶応義塾大学蔵書
歌川広重画:東海道風景図会の後編:上冊#16
をご参照 !!
三王山遺跡からの出土品 上は笠寺の見晴台考古館内の展示模様、よく特別展示がある。館員さんありがとう
古絵図から歴史を辿る

大きな絵図は天保15年(1845年)小田切春江『尾張名所図会』の鳴海の風景です。私はこの地に来て既に40幾年経過しました。出生地も教育を終えた地も違いますが、もう完全にふるさとの一員になっております。若い頃に来たこともあり、古い街道は知っています。越してきた頃は市街地は西から西北方面でした。

川の流域は田んぼばかりで絵図と余り変わりは無かった。西北の川を渡れば急に空気まで冷たく感じました。それほど里山が延々続く自然のままでしたが、今は途切れることの無いほどの人家が東西南北に続いています。都市部に見られる郊外型の典型でしょうか。キジも野うさぎもイタチも野鳥も居なくなりました。

しかし当時に比較すれば何もかもが便利で快適な生活圏になっております。勿論、東に続く丘陵、山間の田畑、ため池、小川、細い滝、山つつじと食虫植物の群生、雪柳、水仙、山道のわらび、雑木林、どんぐり、巨桜・松林などなど全て無くなりました。当時のゴミ山(今は360度眺望の公園)から遥かに港が見えました。

秋になると秋アカネの大群が帯状になり里地に下って行く、それがつい数十年前のことなのです。上の絵図は芭蕉翁が三王山に千鳥塚を立てたときから、既に159年経過した江戸後期の景観です。既に干拓:新田もできています。芭蕉翁が俳句を読んだときは「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」まだ干潟で千鳥が鳴いていたのです。(最上段の公園レリーフ)

往時の星崎は西の字から1キロ真西の内海に浮かぶ松巨嶋(まつこじま)の岬でした。今は松巨嶋も内陸に深く入り島は消え、僅かな起伏の街の中になっています。国道一号線が脇を通っています。この図を見ていると、およそ448年前の桶狭間の戦いを想像してしまいます。信長公は戦場まで、どの経路を走ったのだろうか?

清洲から善照寺砦までの動向に興味が尽きません。戦国時代、熱田神宮の前は風光明媚な年魚市潟でした。南東の松巨嶋までは干潟で渡し、よびつぎ浜から松巨嶋を横切ればまた対岸の古鳴海まで干潟、満潮時には渡し船か鎌倉上道へ迂回、干潮時には浅瀬を渡れた。ここで永禄3年(1560年)合戦当日を辿ってみましょう。

絵図の東海道53次はまだ整備されていない(1601年開道)永禄3年5月19日信長公は居城の清洲を午前4時出発する。そして午前8時熱田に到着する。熱田の満潮時刻は午前5時、伝承では海岸伝いのルートを避け陸路を駆けたとか。では午前10時の善照寺砦着までの2時間の時間経路だとすると推測できる。

447年前の熱田神宮前あゆちがた(年魚市潟)

年魚市潟も大変貌!およそ450年後の現在の景観です。上の絵からでは漁師小屋あたりから渡船場を望む(この鎌倉街道中道の
桟橋が
後年の江戸東海道:宮宿〜桑名宿の海路七里の渡し場となる)今は史跡保存公園。中央の山陰手前辺りが桑名になります。

おそらく熱田から上道(鎌倉街道)井戸田村、八事南・中根から島田の海岸と迂回したのでしょうか、当時、入り江は三王山から北にまだ3km入っていたのです。島田から海岸脇を南下、渡船場の古鳴海(現在の名古屋市地下鉄・野並駅南 )に到着、坂上がりの鎌倉街道に入ったか、それとも海岸沿いを2km下り丹下砦まで向かったか?

午前10時丹下砦(三王山から500m南)に立ち寄り、約1km南東の善照寺砦へ着陣、その前後に丸根・鷲津砦の陥落を知る。信長公は既に熱田の浜で丸根・鷲津砦方面に煙が立ち上るのを見ている
(上の想像図)援軍の要請も受けており、陥落は承知していたものと思われる。熱田で浜の漁師に天候の成り行きを問いかけたとも言われている。
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└ 高血圧と食事について
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□ 古戦場は絞りの町
□ 薩摩義士の苦闘・宝暦治水
 木曽三川と治水の歴史
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