桶狭間の戦い |
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HOME>桶狭間の戦い<リンクメニュー桶狭間の戦い、乾坤一擲、勝敗の分かれ道!■桶狭間の戦いに見る歴史の検証 |
織田信長 - Wikipedia ![]() |
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| 三部構成:@地域の今昔を知る A桶狭間の戦い ・ B古戦場を辿る道 ※永禄3年・5月19日(西暦1560/06/12)の合戦状況:午前10時から午後15時(尾張領内:現在の名古屋市緑区) ※下の戦場図には現在の交通網を重ねて置きました。時を経ても要衝に変わりが無いことが判ります。 ※1960年代の前半、郡から区政に発足の頃、この地域は殆どが山林であった。緑区になった所以です。
永禄3年・5月19日(旧暦)、448年前の暑い一日、後世に疑問を残した戦いが現実にあったのです。私は近所のこの戦跡を散歩コースの一部としております。前ページ、信長公は善照寺砦で情報分析中に丸根・鷲津砦の陥落を確認した。 同じ頃、今川軍の本隊はどこかの街道を進軍中であった。そして桶狭間の戦いのクライマックスに入って行きます。「信長公記」など古文書や幾多の書籍も多いが、あまたの有識者の意見も別れ、合戦の詳細が纏まらず2ヶ所の戦跡が残っている。 国の指定の史跡なら真偽が明確でなければならない。戦いの原因や今川軍が進撃を開始した5月10日から前日までの経緯は、「桶狭間の戦い」で検索すれば情報を得られます。近年の歴史小説が情報の偏りに、ますます拍車を掛けているような感じがします。「百聞は一見にしかず」自分ながらに織田方、今川方のコースを何度も歩いてみました。前ページに記述したように448年の時の流れは川・海・山や、その現場地域の地形を大きく変貌させています。 道路などは完全に掌握が不可能に近いです。その日をリアルタイムに再現させるには、経路の情報が必要です。何も清洲から熱田まで、駿河から沓掛までの道中は知らなくても良いと思います。織田方では熱田神宮から、今川方なら沓掛城からでよいのではないでしょうか。日置や熱田で戦勝祈願が無かったとか説も色々、熱田神宮には信長塀なる建造物も現存する。これが戦勝のお礼の寄進と謳ってあるが、疑れば際限がなく歴史は疑問だらけになってしまう。 信じることも大切である。当時の地図があれば良いが、時は戦国時代で領土の奪い合い。軍事上も戦略上も地図はそれぞれ作成し、間者も入り乱れ情報も錯綜していたに違いない。土地勘のあるものを取り込む、地の利を得たほうが勝敗を握る。結果が全てだが両軍ともに諜報は重視していたものと思うが、織田方が勝っていたかもしれない。評価は諸説だが今川方の緒戦勝利での油断、局地的な大雷雨による大高城への出発の遅れ、そして信長公の天佑、乾坤一擲の大作戦が奏功した。 偶然か必然か覇王に成るべく27歳の若き領主に、天運が幾重にも訪れたと考える方が無難かも知れない。当時の戦場は織田家の領土、桶狭間の山と大高側の間はV字の谷で隘路と湿地帯(深田)があり、本陣と本隊前衛を遮断するには好都合であった。信長公はこれらの地理的な情報にも熟知しており、作戦を練り一大決戦場と決めたと考えられる。暦も現行の太陽暦で判断すれば梅雨の走り(西暦では6/12)、局地的な大雷雨は起きるべくして無勢の衆に味方をしたのです。
当時、戦いは戦時徴集で農民兵が多い。(軍隊が専業の武士団になったのは織田軍が最初)数万と言われている。今川軍は、田植えは終わっていたのだろうか。兵士の数で異論を唱える意見もあり、今川領土内の政策や掌握度など具体的に計算値まで紹介している。本当に25,000とも45,000とも言われる大軍だったのだろうか?上洛か尾張三河の領土確保と保全が目的だったか、それだけに疑問や諸説も多い。それぞれが確証出来れば勝敗の行方、場所もはっきりしてくる。 一番明確に戦歴を記録出来るのは当事者であるが、戦跡が明確に判る記録が少ない。戦況報告書など記録報告の制度など無かったろう。しかし記録が無ければ論功行賞が機能しないのである。徹底した殺戮で捕虜も作らず、また負ければ将棋の駒のように新しい為政者に取り込まれる時代、敵からの情報も得ることが難しい。相互の情報で検証して戦いの状況が明確になってくるが、手薄な本隊を狙う「中入れ」戦法がよもや成功、奇跡に近い圧倒的な勝利では、戦いの検証など霧散したのかも知れない。(上地図へ) 戦跡で最も重要視するのは、地域の言い伝えである。鎌倉街道(東海道)と繋ぐ東浦街道、大高街道は利用されたか否か、そして各村々での地形も大軍の行動も、住民を管理する寺や百姓衆は全て記憶しているはずです。大軍であれば食料の現地徴発もあったろう。地域の伝説、伝承が生きてくるのです。多くの戦死者の遺骸処理と弔い、荒らされた耕地の修復、関われば尚更に伝承は永く語られるものです。数千と言われる戦死者を祭った戦人塚がある。国が認めた史跡に近い。 地元の伝承によれば、豊明:南館(国の史跡側)の一帯はどの街道にも繋がる道の無い雑木林であったとも言われている。少ない軍勢での奇襲戦法が唯一の勝利の方程式と考えるなら、448年間の変貌で山も隘路も無くなってはいるが、北北西の大将ヶ根は小高い山(マンションや住宅が一杯)軍勢の逆落としには都合が良い。本陣のみ撃破した地形と符合させるのには条件が揃う。しかし戦跡が人馬を休ませたり、見張りを設ける高台に思えない、単に狭い窪地に感じられる。
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| 江戸東海道は鳴海城・如意寺前の海岸から万福寺前(合戦の鳴海城攻防時延焼)を通り、瑞泉寺門前を経由して有松へ抜ける間道を整備改修して出来たと思われる。国の史跡側で今川軍は沓掛城脇の鎌倉街道を通ったと説明している。今の鎌倉街道は沓掛→二村山山頂→間米(この間で道は消え林の中を通り、保健衛生大学のど真ん中を突っ切る)→濁池北(今は道が無い)→競馬場北→砂田→※蛸畑→相原郷(善照寺砦東)→宿地→赤塚→嫁ヶ茶屋→古鳴海と辿るが脇道が無いし道が新しい。 ※蛸畑の知名は伝承で、昔、鳴海城の下は海岸、扇川(当時は黒末川)の河口からちょいと東は手越川との合流地(1,501年再建の瑞泉寺「善照寺砦の坂下」と中島砦)更に扇川を1キロ遡れば蛸畑近辺に至る。今は海から10キロ内陸に成っているが、川は今でも満干潮で水位が変わるしハゼも釣れる。当然昔なら海魚も蛸も遡るかも、タコが農作物を食べていたとの伝説が知名の由来である。永禄三年の中島砦は瑞泉寺門前から南東数百米の中州にあり、湿地帯に囲まれた砦であったと想像される。 今川方が占領したばかりの鷲津砦からの眺望は、左前方の海と扇川(当時は黒末川)の河口が目の前、友軍鳴海城も織田方の中島砦(直線距離1270m)も善照寺砦も遮る物が無い見通しであったと考えられる。有松高根山、幕山も眺望は素晴らしい。当然、今川:織田双方共に動静は手に取る様に分かっていたことでしょう。大昔の戦士の目はアフリカのマサイ族のような動物的な視力と考える。1〜2キロの距離なら現代人が双眼鏡を覗くと同じ能力があったと思われます。(上地図へ)
他国へ攻め入る難しさは、自国内や周辺の守りを固めることに始まり、行軍路の敵情報の収集や兵站(荷駄用の人馬、糧秣、資金)準備、徴兵徴用と兵の訓練から配置、軍師や武将の資質看破、恩賞目録、綿密な机上作戦と勝算の是非など多義に亘る。占領地に割く兵数が多ければ点と線の配置となり、手薄なところを衝かれることもある。25,000とも45,000とも謂われる大軍も実質は荷駄兵など兵站関係が多く、精強な戦闘兵団は全軍の20〜30%程(今川軍では5,000〜1,0000)に落ちるであろう。 当時の鎌倉街道や道は荷駄馬車がやっと通れる程度の幅が一般であったと思われる。山間部の隘路を数万の軍団が行軍となれば、先頭と最後尾までの距離は数キロに亘る。その兵団を如何に素早く集合させ展開させるかは、常日頃の連携訓練と敵地調査と熟知である。大高城ではなく深田と潅木と立ち草の生い茂った桶狭間山周辺に休息せざろう得なかった今川本隊、兵站関係に全く兵を必要としない精鋭の織田軍には、今川の戦闘部隊は10倍ではなく僅差とも考えられる。それも各戦線に分散していた。 梅雨時期の豪雨、張り巡らされた諜報網、熟知した自国内の戦場はゲリラ戦も可能である。当然、発見されずに敵の心臓部を狙えれば勝算も見えてくる。絶妙で神懸りとも、際どい奇襲とも大胆とも言われている作戦だが、信長公には方程式が解けていたのかも知れない。 ※最終頁まで是非ご覧下さい B古戦場を辿る道 |
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