桶狭間 地図 謎

 桶狭間の地図と謎

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桶狭間の戦い、乾坤一擲、勝敗の分かれ道!


桶狭間の地図と謎を推理する。
四部構成?@地域の今昔を知る ?A桶狭間の戦い ?B古戦場を辿る道 ?C 古戦場は絞りの町

桶狭間周辺地図の今昔
※永禄3年・5月19日(ユリウス暦1560年6月12日)の合戦状況午前10時から午後15時(尾張領内:現在の名古屋市緑区)
※下の戦場図には現在の交通網を重ねて置きました。時を経ても要衝に変わりが無いことが判ります。

※1960年代の前半、郡から区政に発足の頃、この地域は殆どが山林であった。緑区になった所以です。

詳細はGoogie マップ白表示と地図の境 << クリックで拡大)愛知県道:222が江戸時代の名残、 旧東海道です。 
有松・古戦場公園の史跡&観光案内--桶狭間の戦い (江戸時代の呼称:桶廻間):織田信長公VS今川義元公

永禄3年・5月19日(旧暦)、450年前の暑い一日、後世に疑問を残した戦いが現実にあったのです。私は近所のこの戦跡を散歩コースの一部としております。前ページ、信長公は善照寺砦で情報分析中に丸根・鷲津砦の陥落を確認した。 同じ頃、今川軍の本隊はどこかの街道を進軍中であった。そして桶狭間の戦いのクライマックスに入って行きます。「信長公記」など古文書や幾多の書籍も多いが、あまたの有識者の意見も別れ、桶狭間地図合戦の詳細が纏まらず2ヶ所の戦跡が残っている。

国の指定の史跡なら真偽が明確でなければならない。戦いの原因や今川軍が進撃を開始した5月10日から前日までの経緯はWikipediaの桶狭間の戦い」で情報を得られます。近年の歴史小説が情報の偏りに、ますます拍車を掛けているような感じがします。「百聞は一見にしかず」自分ながらに織田方、今川方のコースを何度も歩いてみました。前ページに記述したように450年の時の流れは川・海・山や、その現場地域の地形を大きく変貌させています。桶狭間の地図も謎の一部となっています。

道路などは完全に掌握が不可能に近いです。その日をリアルタイムに再現させるには、経路の情報が必要です。何も清洲から熱田まで、駿河から沓掛までの道中は知らなくても良いと思います。織田方では熱田神宮から、今川方なら沓掛城からでよいのではないでしょうか。日置や熱田で戦勝祈願が無かったとか説も色々、熱田神宮には信長塀なる建造物も現存する。これが戦勝のお礼の寄進と謳ってあるが、疑れば際限がなく歴史は疑問だらけになってしまう。信じることも大切である。


当時の地図があれば良いが、時は戦国時代で領土の奪い合い。軍事上も戦略上も地図はそれぞれ作成し、間者も入り乱れ情報も錯綜していたに違いない。土地勘のあるものを取り込む、地の利を得たほうが勝敗を握る。結果が全てだが両軍ともに諜報は重視していたものと思うが、織田方が勝っていたかもしれない。評価は諸説だが今川方の緒戦勝利での油断、局地的な大雷雨による大高城への出発の遅れ、そして信長公の天佑、乾坤一擲の大作戦が奏功した。

偶然か必然か覇王に成るべく27歳の若き領主に、天運が幾重にも訪れたと考える方が無難かも知れない。当時の戦場は織田家の領土、桶狭間の山と大高側の間はV字の谷で隘路と湿地帯(深田)があり、本陣と本隊前衛を遮断するには好都合であった。信長公はこれらの地理的な情報にも熟知しており、作戦を練り一大決戦場と決めたと考えられる。暦も現行の太陽暦で判断すれば梅雨の最中 (新暦では6/22)、局地的な大雷雨は起きるべくして無勢の衆に味方をしたのです。

平安時代からの東海道「鎌倉街道」二村山
和歌に多く詠われている景勝地であった。
合戦前日、義元公が着陣した沓掛城跡
遺構が比較的残っている。管理も良い。

当時、戦いは戦時徴集で農民兵が多い。(軍隊が専業の武士団になったのは織田軍が最初)数万と言われている。今川軍は、田植えは終わっていたのだろうか。兵士の数で異論を唱える意見もあり、今川領土内の政策や掌握度など具体的に計算値まで紹介している。本当に25,000とも45,000とも言われる大軍だったのだろうか?上洛か尾張三河の領土確保と保全が目的だったか、それだけに疑問や諸説も多い。それぞれが確証出来れば勝敗の行方、場所もはっきりしてくる。

一番明確に戦歴を記録出来るのは当事者であるが、戦跡が明確に判る記録が少ない。戦況報告書など記録報告の制度など無かったろう。しかし記録が無ければ論功行賞が機能しないのである。徹底した殺戮で捕虜も作らず、また負ければ将棋の駒のように新しい為政者に取り込まれる時代、敵からの情報も得ることが難しい。相互の情報で検証して戦いの状況が明確になってくるが、手薄な本隊を狙う「中入れ」戦法がよもや成功、奇跡に近い圧倒的な勝利では、戦いの検証など霧散したのかも知れない。(上地図へ

戦跡で最も重要視するのは、地域の言い伝えである。鎌倉街道(東海道)と繋ぐ東浦街道、大高街道は利用されたか否か、そして各村々での地形も大軍の行動も、住民を管理する寺や百姓衆は全て記憶しているはずです。大軍であれば食料の現地徴発もあったろう。地域の伝説、伝承が生きてくるのです。多くの戦死者の遺骸処理と弔い、荒らされた耕地の修復、関われば尚更に伝承は永く語られるものです。数千と言われる戦死者を祭った戦人塚がある。国が認めた史跡に近い。

地元の伝承によれば、豊明:南館(国の史跡側)の一帯はどの街道にも繋がる道の無い雑木林であったとも言われている。少ない軍勢での奇襲戦法が唯一の勝利の方程式と考えるなら、450年間の変貌で山も隘路も無くなってはいるが、北北西の大将ヶ根は小高い山(マンションや住宅が一杯)軍勢の逆落としには都合が良い。本陣のみ撃破した地形と符合させるのには条件が揃う。しかし戦跡が人馬を休ませたり、見張りを設ける高台に思えない、単に狭い窪地に感じられる。

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一方の桶狭間田楽坪一帯は、大高街道に繋がっており、水源も豊富で人馬の休息地にも適している。また数日前から設営部隊が準備をしていたとの伝承がある。この地域も開発で緑山が少なくなっている。以前、錆びた矢じりや刀槍が丘陵地から出土し、実際の戦場地に付いて疑問を投げ掛けていた。もっと詳しく記事を読んで置けばと悔やまれる。

私は歩いてみて街道に近い、桶狭間田楽坪(桶狭間古戦場公園)に信憑性を感じているが、東方の前後町(現在)に所在の「戦人塚」が気になります。戦人塚は正面攻撃説の現在の桶狭間北(桶狭間古戦場公園)から離れている。「戦闘地域が桶狭間一帯の東西に延びた広域」であったのであろう。(戦人塚自体は戦没者の180回忌法要で建立)

今川の戦死者が3,000人(信長公記による)も出れば近くに埋葬がされて当然、4・50年前でも周辺は人家が少なく山ばかりであった。
450年前なら尚更、埋葬地は近くに幾らでもある。何故、豊明:史跡側に近い前後町に戦没者の塚があるのか?正面攻撃説の現在の桶狭間北にも武路公園西に「七ッ塚」と言う戦没者の碑がある。

ここは、義元公を討ち取った織田軍が兵を集めて勝ち鬨をあげた場所とも言われています。織田軍の戦死者も各戦域を纏めれば結構多い。その後、村人はこの周辺に七つの穴を掘り敵味方双方の戦没者を弔いました。そのため七ッ塚と呼ばれています。しかし「戦人塚」と「七ッ塚」だけでは、義元公の受難、今川軍壊滅の主戦場が特定できない。

今日、本家争いで論争になるのも記録が明確でないからです。当時、鎌倉街道に通じる道は無かったとの説もあるが、鳴海〜有松(合戦時、地名は無い)の間道か前後(地名・戦人塚の地)山間の隘路は沓掛・阿野・大脇村に通じていたのではないかと考える。
今川軍が敗走した道の全域が戦場であり、主戦場が特定できないのが当然であろう。

「戦人塚」のある国道一号線・北方面丘陵一帯の山林は南斜面で日当たりも良く、昭和40〜50年代には宅地開発が盛んに行われていた。そんな折にこの丘陵地から当時の人骨が多数出てきたそうです。 繁栄の時代に水を注す情報は喧伝され無かったが、桶狭間の戦没者が埋葬されていた証でした。
雷鳴の中の今川勢を見る織田軍
鬼人の形相、木陰で機を窺う織田軍:正面攻撃
説の武路釜ヶ谷、今川軍本陣は目前2〜300m
にある。戦後、勝ち鬨を挙げたところとも言われ
ている。(現在の愛知用水路周辺であろうか?)
上地図へ(武路とは武士が通った路?)その知名
がいつ頃からは知らないが、謂れはあるのか・・・

雷雨も小降り、雲間から日が差す。突撃の合図!
僅か数刻後には歴史的な大勝利になっている。
命の遣り取りの心中とは一体如何許りのことか

おけはざま山・本陣へ突撃!!
江戸東海道は鳴海城・如意寺前の海岸から万福寺前(合戦の鳴海城攻防時延焼)を通り、瑞泉寺門前を経由して有松へ抜ける間道を整備改修して出来たと思われる。国の史跡側で今川軍は沓掛城脇の鎌倉街道を通ったと説明している。今の鎌倉街道は沓掛→二村山山頂→間米(この間で道は消え林の中を通り、保健衛生大学のど真ん中を突っ切る)→濁池北(今は道が無い)→競馬場北→砂田→蛸畑→相原郷(善照寺砦東)→宿地→赤塚→嫁ヶ茶屋→古鳴海と辿るが脇道が無いし道が新しい。

蛸畑の知名は伝承で、昔、鳴海城の下は海岸、扇川(当時は黒末川)の河口からちょいと東は手越川との合流地(1,501年再建の瑞泉寺「善照寺砦の坂下」と中島砦)更に扇川を1キロ遡れば蛸畑近辺に至る。今は海から10キロ内陸に成っているが、川は今でも満干潮で水位が変わるしハゼも釣れる。当然昔なら海魚も蛸も遡るかも、タコが農作物を食べていたとの伝説が知名の由来である。永禄三年の中島砦は瑞泉寺門前から南東数百米の中州にあり、湿地帯に囲まれた砦であったと想像される。

今川方が占領したばかりの鷲津砦からの眺望は、左前方の海と扇川(当時は黒末川)の河口が目の前、友軍鳴海城も織田方の中島砦(直線距離1270m)も善照寺砦も遮る物が無い見通しであったと考えられる。有松高根山、幕山も眺望は素晴らしい。当然、今川:織田双方共に動静は手に取る様に分かっていたことでしょう。大昔の戦士の目はアフリカのマサイ族のような動物的な視力と考える。1〜2キロの距離なら現代人が双眼鏡を覗くと同じ能力があったと思われます。(上地図へ

今の鳴海城跡から丸根・鷲津・大高方面を見る。
当時、城の下は海岸、南から西方面の眺望は
全ての対岸が見渡せる最重要の地であった。
善照寺砦跡から桶狭間方面を見る。南へ数百m下れば
中島砦、当時両側は深田であった。桶狭間合戦前、
合戦へ赴く最終的な集合場所であった。

他国へ攻め入る難しさは、自国内や周辺の守りを固めることに始まり、行軍路の敵情報の収集や兵站(荷駄用の人馬、糧秣、資金)準備、徴兵徴用と兵の訓練から配置、軍師や武将の資質看破、恩賞目録、綿密な机上作戦と勝算の是非など多義に亘る。占領地に割く兵数が多ければ点と線の配置となり、手薄なところを衝かれることもある。25,000とも45,000とも謂われる大軍も実質は荷駄兵など兵站関係が多く、精強な戦闘兵団は全軍の20〜30%程(今川軍では5,000〜1,0000)に落ちるであろう。

当時の鎌倉街道や道は荷駄馬車がやっと通れる程度の幅が一般であったと思われる。山間部の隘路を数万の軍団が行軍となれば、先頭と最後尾までの距離は数キロに亘る。その兵団を如何に素早く集合させ展開させるかは、常日頃の連携訓練と敵地調査と熟知である。大高城ではなく深田と潅木と立ち草の生い茂った桶狭間山周辺に休息せざろう得なかった今川本隊、兵站関係に全く兵を必要としない精鋭の織田軍には、今川の戦闘部隊は10倍ではなく僅差とも考えられる。それも各戦線に分散していた。

梅雨時期の豪雨、張り巡らされた諜報網、若き日「うつけ」と言われ破天荒な行動をしていた信長公は、既にこの近在の地形を熟知していた。地の利を得た自国内の戦場はゲリラ戦も可能であったのです。当然、発見されずに敵の心臓部を狙えれば勝算も見えてくる。絶妙で神懸りとも、際どい奇襲とも大胆とも言われている作戦だが、信長公には方程式が解けていたのかも知れない。さらに天の利、梅雨期の天候激変が解答を早めたとも言えよう。 ※引き続き最終頁まで是非ご覧になって下さい ?B古戦場を辿る道 ?C古戦場は絞りの町

相互リンク先です。
当サイト「桶狭間四部構成」をご覧頂き、現地探訪を計画する場合、左のサイト様は内容も面白く大変参考になります。他に名古屋市内や近郊の紹介情報も多く、名古屋人の私も訪問しては楽しませて頂いています。お薦め。
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