古戦場 |
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| HOME>古戦場を辿る道<リンクメニュー 古戦場の道、誰か語る!兵どもが夢のあと三部構成:@地域の今昔を知る A桶狭間の戦い ・ B古戦場を辿る道 |
![]() 合戦時5/19は太陽暦では6/12の梅雨入り。 |
| ■散歩道は歴史路◇桶狭間古戦場を歩く 初めて2つの古戦場を訪れてから40数年が経つ。最初は国指定の桶狭間古戦場が正しいと思っていた。なぜ2ヶ所あるのかが解らなかった。戦跡を訪れる度に何か疑問が出てくるのです。映画も歴史小説も圧倒的に迂回奇襲説で通している。得られる資料は歴史小説か映画かTVでした。しかしこの10余年で変わった。 古文書の「信長公記」の分析や幾多の検証もされ、また文明の利器・インターネットで高尚な情報が得られるようになり、比較や戦跡確認が容易になってきたのです。ただ数百年で現地の変貌が著しく、目での検証が難しくはなっています。永い間の疑問は鎌倉街道です。東浦や大高街道に比べ、辿るのが難しくなっている。 近頃は「桶狭間合戦最近の学説」で織田軍の正面攻撃を取り上げています。私が永い間思っていた地元の伝承説も出て来ています。「通説の迂回奇襲作戦は江戸時代前期の創作である」との新説も出てきました。またこの戦いが上洛の前哨戦か、単に三河:尾張の平定の為なのかも調べることが必要です。 無謀か賭けか、10分の1と言う軍勢で本陣を強襲する戦法、戦国史にひときわ異彩を放ちます。この後、40年間の天下統一戦の分疑点とも言える。この戦いの正確な内容を本当に知りたいものです。論功行賞で勲功一番により沓掛城主になった織田軍の諜報参謀・簗田(やなだ)出羽守の逸話もある。今川軍の動静を的確に捕捉し伝えたと言われている。 しかし大軍の内、3,000とも言われる今川本陣のみを強襲出来たのは情報のお陰ばかりでもなく、偶然と偶発のタイミングの妙とも取れます。「楠木の巨木が倒れた」豪雨が起こるとは誰が予測できたろうか。近年の研究では大軍を分散し間隙を突かれた布陣、緒戦での勝利に驕った兵の乱取(略奪)行為など指揮系統の乱れも敗戦の一因とされている。
(前ページ,、足で調べた戦域図、開きながら見ると便利です) この地は往時も今も経済や戦略上の大動脈、ここを制する重要性が判ります。今でも新幹線、JRと私鉄、国道1号線&国道23号線、伊勢湾岸道路、工事中の名古屋環状線、第2東名(いずれ道路利用は1日・20万台の予測)と古代から変わらぬ交通の要衝です。当時は東西に通じる戦略上重要な関門でした。 古鳴海を通過するとき織田軍は4,000弱、丹下砦に300、善照寺砦に1,000を割き、僅か残る2,000余の軍勢のみで攻撃を仕掛けるのです。丸根・鷲津砦に援軍を送らず見殺しにしても敵を欺く、信長公の心中は余人では計り知れない。 砦を落とした今川軍は鳴海城、大高城、鷲津砦の前面に広がる海の拠点も確保した。 黒末川(扇川)の河口には、同盟の長島一向衆(愛知県弥富一帯)服部左京助の千艘(?)にも上る船隊(14年後、織田軍の大虐殺により殲滅)が集結した。今川義元公が大高城に入城と呼応して、軍事行動を起こす態勢を敷き、海上から織田軍を威嚇している。陸と海に夥しい敵の大軍、正に「蟷螂(とうろう)の斧(おの)」に近い状況であった。 桶狭間の方面に今川本隊の存在を察知した頃、有松高根山(現在、名鉄:有松駅南南西500mの有松神社)の善照寺砦方面・物見の今川軍前衛:松井宗信隊1,000兵に(?)、佐々隼人正・千秋四郎※と兵300が突っ込み50騎が討ち取られ部隊は壊滅。間を置かず信長公は「戦いに疲れた大高勢だから自軍は勝てる」との激を飛ばした。 ?・他の説では佐々隼人正・千秋四郎が突入攻撃したのは鳴海城とも言われているが、どちらが真実かは確証できない。 ※千秋(せんしゅう)四郎秀忠(すえただ)は熱田神宮の大宮司家(鎌倉幕府・源頼朝公の生母の里)出である。知多半島先端の師崎:羽豆崎の城主でもあった。千秋家の墓地は我が家の北1キロ余、野並・天白:相生山西方にある。話は逸れるが源頼朝公も熱田生まれの愛知県産である。父、源義朝公は愛知県知多半島の美浜で謀殺されています。
織田軍は善照寺砦に多くの旗・幟を立て本隊在陣を装い、午前11時から12時ごろ中島砦に進む。正面攻撃説では手越川沿いの南東湿地帯か、有松へ抜ける隘路(狭くて通行の困難な道)か有松北背面の山側を、太子ヶ根から生山〜武路釜ヶ谷(現在、名鉄:有松駅南南東1,000mの武路公園)辺りまで音も無く進軍した。 戦場:桶狭間一帯の山麓(昭和の中頃でも一面の林)の敵陣は目と鼻の先、2〜300m手前の谷間に潜み突入の機を窺っていたと言う。高根山は高さ50m、頂上からの眺望は今でもすこぶる良い。山また山の当時なら中島砦や善照寺砦方面の見晴らしは、戦略上、先鋒隊が物見として陣を張るのに最適であったと感じる。 連なる幕山、巻山にも井伊直盛隊1,500が布陣していた。三河物語の「今川勢が西北の守りを重視していた」との記述は頷ける。そんな眺望の良い高根山より北東谷間(1キロも離れていない)を織田軍の本隊2,000余が、隠密裏にどう駆け抜けたのか?大高城近くの砦を放棄して中島砦前衛に居た佐々:千秋隊の、今川前衛部隊への突撃は陽動作戦なのか? (佐々:千秋隊の動向は信長公記では抜け駆けを臭わせ、他説では敵前撤退の責任を取った自殺攻撃とも) 今川方は右の高根・幕山に2,500、正面に本隊数千の兵、正面攻撃のセオリーに逆らっている。正に周辺の状況をも看破した上での運命を掛けた大勝負だった。信長公の一点集中の攻撃に天が味方した。13時頃、突如雷を伴う豪雨になる。一時視界もままならぬ程の薄暗い状況、天地鳴動の局地的な大雷雨だった。
勿論、両軍とも身辺に金属を一杯付けている。刀、槍、兜と鎧、山側の今川の兵士は落雷を怖れ避難する。織田軍が大軍から分散して小規模になっている本陣を見つけた。14時、雨上がりの中、2,000余りの兵が突撃猛攻を開始した。義元の本陣との確証は、慌て捨て置かれた塗輿を発見したからとも伝えられている。 服部小平太らの奮戦、義元公討死までは幾多の逸話で語られている。高根山に着陣していた松井宗信隊も、本陣警護に就いていたが悉く打ち砕かれて行った。逃げ惑い深田に足をとられた今川の井伊直盛ら武者も次々討ち取られて行く。大将を討たれた今川軍は総崩れであった。合戦は2時間余りの短い戦闘で勝敗が決した。 それが後世の大きな疑問となっている。凄惨な戦場での首検分(更に清洲へ持ち帰り検分)を終え、織田軍は日暮れ前には凱旋の道を清洲へと帰る。義元公の戦死によって今川軍の本隊は壊滅、織田軍の大勝利となったのです。夕刻、海を埋め尽くすほどの船隊も徒労のまま散って行く。翌日、松平元康公(徳川家康公)も大高城を夜陰に退却した。 丸根、鷲津の占領砦も放棄されて行った。残るは鳴海城のみになったのです。鳴海城は今川の猛将:岡部三郎兵衛長教(元信)が1,000余の軍兵で孤軍奮闘、頑強に抵抗した。やがて長教は信長公と交渉、降伏したが放免になり鳴海城を明け渡した。(昭和18年、子孫が大碑を建立している)開城が「義元公の首級と引き換え」との通説だが、以下の如く履行されたかも知れない。 「信長公記」によれば首級は、首実検に立ち会った捕虜に褒美を与え、僧を伴わせて鄭重に返還したと記述してある。(義元公の首級は駿府天沢寺に葬られた。胴は家来に運ばれたが織田軍追撃や腐敗のため、途中の豊川:牛久保・大聖寺までしか辿り着けなかった)この戦いには若き藤吉郎や日本歴史に名を残す武将も従軍していたのです。
桶狭間の戦いも終焉し、三河国境の砦は瞬く間に織田軍門に下っていった。5月23日、 今川方が遁走した岡崎城に本来の国主:元康公が戻った。後に天下統一に至るとは、開運の本命は徳川勢だったかも知れない。織田との国境争いや宗教内乱も頻発したが2年後家康公は織田と和議、ここで三河と尾張は平定となったのです。 想えば「つわものどもが夢のあと」敗軍の将は兵をば語らず、勝者もしかりです。2つの義元公のお墓も将兵の碑もみすぼらしく悲哀を感じさせます。7年後、信長公は天下布武を旗印に激しい闘争に明け暮れ歴史を創成して行く。そして22年後、自らが示した戦いの教範を倣わず、本能寺で終止符を打たれたのです。 ■兵どもが夢の跡を行く 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て滅せぬ者はあるべきか」のとおり、信長公は遠大な野望を叶えずして、49歳の生涯を閉じたのです。歴史がifで戻ったりしたら面白い、信長公はどんな日本を創造していたのだろう。戦記にある桶狭間の山は範囲の広い丘のような山々、固有の山ではない。 2つの戦跡の間にあり、現在、往時を偲ぶのは胸のあぶつ坂道が多い起伏である。僅か半世紀で大学、高校、病院、頂上には中小工場、住宅と周辺が変わる。今では戦跡を調べることも頗る難しい。起伏の多い山や丘陵を取材するのは実にしんどかった。往時、天候さえ好ければこの丘陵の陣地は絶好のロケーションである。 西北の谷一帯の眺望は良く、地の利は断然に今川側にある。だが今川方はなぜ梅雨期を選んだのだろうか?油断よりも急激な天候変化が戦いの雌雄を決したのかも知れない。熱田神宮ご神霊のご加護か、それほど神懸り的な大勝利であったのです。熱田神宮の信長塀の寄進も真実であろうと思えてきます。
※当サイトは歴史専門ではありません。3ページを割いただけの大雑把な桶狭間の戦いを記述してある程度です。両軍の実際兵力の分析(戦闘兵団と支援部隊の割合)戦前の駆け引き、作戦と詳細な経緯、本当の戦場の推理、当時の領土分布や遡っての群雄攻防の歴史などは記述していませんが、限られた枠内で精一杯纏めてみました。私も関連のサイト様の多くに訪問しては知識を頂きました。 検索すれば内容の濃い「桶狭間の戦い」の歴史サイト様が多くあり、とても興味深く拝見することが出来ます。日本人の多くが知っている「桶狭間の戦い」の史跡が、近くの散歩道の範囲内にあることが凄いことと思います。また当サイトでアクセス訪問頂いているページでは、この三部構成が上位です。郷土史でも生活圏地域の歴史をコンテンツの一部に入れたことを、今は誇りに思っております。 |
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