転勤族の家庭に生まれれば、比較的印象に残るのは同一地域で就学を終始したところが多いものです。幼稚園、小学校、中学校、高校と住まいに近い地域の学校に通ったところ、友が多く青春の地、酸いも辛いも経験したところ、幾ら変貌が激しくてもそこに行けば、たちどころに当時の情景が戻るところです。「あぁー、死ぬまでに戻りたい」
あそこはどうなっているだろう、友や近所の人達は今どうしているのだろうか?」と切ないほどの郷愁で夢でも涙が溢れます。決まって何十年前の風景とその時のその人の顔が想い出されるのです。また親や兄弟姉妹や親類が未だに住んでいる、自分が生まれ育ったところ、印象深い思い出の地なら完全に故郷です。豊かな思い出が夢に出てくるところです。
私は転勤族走りの家庭に生まれました。藩の時代の武士や明治の頃から銀行員や公務員(当時は軍人家族も含む)は転勤がありました。その頃の世間の会社工場はどうか存じませんが、父は航空機製作会社で陸・海軍機の電気配線担当でした。兵士として昭和十六年召集、そして南部仏印進駐・(ベトナム・サイゴン駐留)でしたが、軍需生産に必要な熟練技能者として帰還させられたのです。
そして熊本の航空機製作所:昭和18年新設(1943)に翌年配属されました。祖父・祖母と親子5人でした。勿論、乳飲み子の私も含まれていました。社宅での生活は昭和23年までですが、私が物心が付いた頃の記憶は社宅の周辺です。それが生まれ故郷でない最初の故郷です。航空機製造も占領軍に禁止され、工場閉鎖を前に名古屋へ引揚げました。見知らぬ生まれ故郷へ帰り、既に60余年になります。 |

写真:1948・03:水前寺公園 |
1945年(昭和20年)5月24日夕刻、現在の熊本赤十字病院辺りに有った健軍飛行場から、純粋に国を憂い家族を守るため、私達の社宅上空を飛び沖縄に飛んで行った「空挺特攻義烈隊」の勇士に合掌。7/1・2の工場と社宅への空襲、長崎の原爆、敵上陸の噂で町中大騒動の様子、工場の沖縄女子挺身隊や生産物資不足のこと、終戦の4日後、「負けたか!」と落胆して亡くなった祖父のこと、両親はよく話をしたものです。
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| 引揚げ一家は御多分に洩れず昭和20年代の困窮を嫌と言うほど経験し、家庭の都合での転居も数度ありました。同じ行政市区ですから生まれ故郷と生活してきた地域は同じです。しかし幼児期に記憶した風景や生活を忘れることが出来ません。歳を取れば取るほど「もう一度戻りたい帰りたい」が日増しに強くなります。その土地の水や空気や食物のDNAまでが入り込んでいるのでしょうか。甲子園で熊本の球児が出たり芸能人がTVに出たりすれば、意識する前に応援しているのです。 |
かって高校野球で地元:中京商業が城戸投手を擁する熊本代表:済々黌高校と対戦するのが嫌だった。何時もねじ伏せられ勝てない悔しさと、反面では熊本代表が試合に残る嬉しさが同居しているのです。昭和33年選抜決勝は両方の応援で辛かったが済々黌優勝は素直に喜べた。
昔から旅に出る場合「水が変わるから気を付けなさい」と良く耳にします。「年寄りの冷や水」もそうです。特に年寄りと幼児には空気と水が変わると、身体に変調が来ると経験から思っています。学術的な因果関係は知りませんが、空気や水が生活地域の免罪符のような気がします。 |

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