木曽三川 |
||
|---|---|---|
|
|
||
| スポンサードリンク HOME>木曽三川と治水の歴史<リンクメニュー |
木曽三川の歴史散歩 |
木曽三川治水の歴史と薩摩堤、そして今 |
■薩摩義士の偉業と木曽三川の現在を見る。 そもそも木曽三川(きそさんせん)は、濃尾平野を流れる木曽川、揖斐川、長良川の総称である。水源は支流を集めながら、それぞれが単独の大河でもあります。かつて、この三本の川は、下流部で合流・分流を繰り返し、たびたび水害を起こしていた。 大古より人々に恵みを与えることも有ったが、こと大雨になれば暴れ狂い、民を苦しめてきたことは計り知れない。江戸時代以降何度となく改修が行われてきた。有名なものは薩摩武士が行った宝暦治水とヨハネス・デ・レーケらによる明治改修である。 長良川と木曽川はこれより上流・岐阜県羽島市桑原町&海津町成戸(なりと)あたりから合流して、またすぐに揖斐川とも合流した。治水の技術も機械の力も無い大昔は、ただ水の流れに逆らわず、それぞれの輪中で生きて行くより仕方がなかった。 ●巻頭ページ 薩摩義士の苦闘・宝暦治水 |
![]() 国営:木曽三川公園管理センター(岐阜県海津市) |
|
その苦渋の民を救うべき、理不尽な政策に堪えながら薩摩のもののふが難工事に挑戦し水と戦った。その証がタワーの足元の松原にある。だが宝暦治水工事も流れの一部を堰き止めるに止まり、水害は依然として民を苦しめていた。木曽三川が完全に分離したのは明治の終り、つい100年ほど前である。それまでは伊勢湾に注ぐまで海水と真水の交わる、大小の島や輪中からなる水郷のような河口であった。周囲を土手で囲った島や輪中は殆どが海抜ゼロ以下、そこに村落が形成されていた。 ひとたび水害になれば人も家畜も作物も、全ての財産が無くなってしまいました。実際、この場に立っても往古の合流河川の様子は想像できない。幾多の先人達が数百年の間、血命と汗と涙で大自然を治めた行った人工美の極致が眼下にあるのです。橋や堤の上を行き交う車の人々も私も、今このとき実際に恩恵を受けているにも拘らず、歴史認識にも程遠く当り前に通り過ぎている。その時その時代に生まれ歴史をタイミングと捉え、経験しなければ苦しい現実も判らない。 ここを襲った未曾有の水害も伊勢湾台風もしかり、経験していなければ解らない。しかし明治改修工事に参加した人(家の向かいのお爺ちゃん:昭和36年、80歳を過ぎていた)の苦労話を聞いたり、それで歴史に興味を抱き史跡で確認する。その場所で繰り広げられた現実を学び、後世に伝えて行くことこそ有意義で大切なことです。今、便利さを享受できるのは先人の犠牲と塗炭の苦しみが根底にあることを知る。それが先人へ畏敬の念と感謝の気持ちに他ならないと思います。 全国にある有名な疎水や用水路、治水、開墾・干拓地にも同じことが言えます。命懸けで資材を投げ打って農地を守り、耕地を豊に作っていった江戸期から昭和期の偉大な先人達の、血のにじむ業績に対しても同じ感慨を持たなければならない。 次ページへ |
||
![]() |
![]() |
|
| 木曽川文庫パンフレットより拝借、木曽三川を上空より北方を望む。 | タワー北西・揖斐川上流、伊吹山方面 | |
![]() |
![]() |
|
| タワー北東・長良川と木曽川上流、岐阜北部方面 両川の間の堤が明治背割堤、分流の結果の証です。 |
タワー東・手前は長良川大橋、木曽川の立田大橋・名古屋方面 |
|
![]() |
![]() |
| タワー南西・揖斐川下流、桑名方面 | タワー南・油島締切・薩摩背割堤(千本松原&治水神社) | |
![]() |
![]() |
|
| 故郷へ帰れなかった薩摩義士を祀る治水神社 | 揮毫、日本海海戦提督・東郷平八郎元帥(薩摩出身) | |
Copyright (C) TOPページに戻る All Rights Reserved |
|||||||||||