木曽三川治水 |
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木曽三川治水の歴史散歩 |
木曽三川治水、明治大改修と輪中 |
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| 【木曽川側】、両側ともレジャーボートの係留ばかりが目立つ | 【長良川側】、水門扉・閘門の石積みは平成6年に改修 | ||||||||||
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| 【木曽川側】、周辺は道路を始め全てが綺麗に整備されていた。 | 【長良川側】、46年前に見受けたのは漁船ばかりであった。 | ||||||||||
■木曽三川に関して忘れてはならない輪中 竹箒の穂先のように流れていた木曽三川、土砂が堆積して自然に出来た堤防上に集落が出来たのは千年以上前です。そして洪水の避難場所としての水屋が出来たのがおよそ千余年前、集落の周り全体をを堤で囲った「輪中堤」が見られるようになったのが660余年前とのこと。鎌倉・室町をへて戦国時代のこの辺りは、船を操り船団を組み盛んに取引をしながら栄えていた。時の権力者の力も及ばない地域でも有った。 古戦場を辿る道で記しました。桶狭間の戦いの際、鳴海潟に今川の同盟軍として千艘にも上る船隊で参じた。ウグイ浦(愛知県弥富一帯)の長島一向衆・服部左京助達も、輪中の寺々を砦とした本願寺門徒であろう。本願寺の蜂起に伴って、尾張の権力者(織田信長)にも抵抗していった。おそらく弥富も木曽川・佐屋川の流域で輪中であったと推測され、長島との繋がりは強いものがあったと思われる。 長島町の輪中の郷・ふるさとセンターは、数万の織田軍と戦い2万人以上が大虐殺された長島一向一揆のこと、千年余りの輪中の集落と生活、数々の資料や道具類が一杯あり、料金の安い中身の濃い資料館です。隣には大きな銀屋根の施設、立派な箱もので夕張や厚生年金保養所がチラッとよぎった 。「皆に知って貰えればいいな」広くとても充実した館内を見ながら思った。館員さんはとても親切でにこやかでした。 |
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| 長島町:輪中の郷 ※右の写真のみはHPから拝借しました。 | 水屋や復元建物が見応えあり、輪中の民具や農耕機具も多い。 | ||||||||||
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