■治水大工事・国に帰れなかった薩摩義士を悼む
宝暦治水は江戸時代の幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。約252年前の宝暦4年2月27日に着工し、宝暦5年5月22日(1754年から55年)に完成しました。水害に苦しむ人々の為に、 薩摩藩士が艱難辛苦の末に日本最大の治水工事を行った。この工事による治水効果は3河川の下流地域300か村に及んだとされる。
しかし当時の土木技術や、人力のみの工事では上の地図のように数ヶ所の締切工事でした。完全に三川分流がなされたのは明治になってからである。当時の薩摩には大変な遠方であり、そして全く領土と関係なくゆかりもない土地での工事。現代風に言えば海外土木工事であった。資金、連絡手段もない時代に、薩摩藩士が命懸けの気の遠くなるような工事を命じられたのです。
この背景にはお庭番の情報で薩摩が琉球との密貿易などで莫大な富を得ている噂、その力をそぐ狙いもあったと見られる。他に関が原の報復との説もある。薩摩は関が原で石田三成の西軍に組み、敗戦の最中、敵中突破の敗走を成功させた経緯がある。さらに御三家尾張との縁談失敗もありました。吉宗公の姫君との縁談など資金の浪費で藩の財政破綻を虎視眈々と狙われていた。
薩摩は弱体化したい目の上のタンコブであったのです。947名の人員と工事費は予算の約2倍の40万両(現在で換算すれば300億円)全て薩摩持ちの外様大名への強藩財政疲弊政策としての御手伝普請だったのです。工事期間中に幕吏(幕府の代官:吉田久左衛門他37名、「笠松代官所」及び美濃石津郡の多良水行奉行所:高木三家から29名)が加わって監督や指示をした。
彼らからの度重なる嫌がらせや妨害工作が有り、一部・地元民の非協力も重なった。幕府に対する抗議の割腹自殺者は51名にのぼり病死者も33名を数えた。完了検分後に、総奉行であった平田公は予算超過の責任を取って自刃している。艱難辛苦の内容はHPで「宝暦治水、薩摩義士」でとても詳しい解説があります。是非ご覧になって下さい。
110年間の臥薪嘗胆の遺恨は※戊辰戦争で打倒幕府への原動力にもなったろう。しかし逆に薩長軍は戊辰戦争で会津藩などに酷い仕打ちを行い、現在まで火種を残している。武力や権力での強権発令は止め処がない。やがて廃藩置県で封建体制も崩れていった。ちなみに膨大な薩摩の借財は、その後20年で全返済を行っている。
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明治の三川分流工事は長良川と木曽川をはっきり分けた背割堤工事、揖斐川と長良川を分けた工事により、完全に三川は単独の川となって現在に至る。勿論、洪水被害は激減した。
薩摩義士に始まりヨハネス・デ・レーケさんのお陰でもある。明治新政府が幕藩体制の弊害から脱し、挙国一致の大工事を実現させたのは偉大なことである。関連ページは最下段からどうぞ!
戦後の大水害も記憶に新しい!災害の起こらない治水計画は常に、想定内にして置くべきである。タワーから河川を見て思った。明治の工事に参加した今は亡き爺ちゃん達も凄かった。 |