ミニチュア古民家 |
![]() |
ミニチュア 古民家 |
| スポンサードリンク |
|||||||||||||||
![]() ※越中・五箇山:菅沼集落の合掌造り 母方の祖父母が越中五箇山圏の利賀村を離村したのは明治の末期・1908年頃。そして100年余後、孫は母の遺影を携え始めて菅沼合掌村を経て利賀村を訪れた。濃霧の山道は舗装道路と立派なトンネルで越せたが、過っての道筋は人を寄せ付けない深山幽谷の地であったろうと想像が付く。水と木材を除き穀物は少なく、五箇山圏内は養蚕・和紙・煙硝を生業として何百年を生きてきた。明治中期よりそれらの産業も縮小傾向を辿り、大家族制度も限界に近くなり跡取り以外の祖父母や累系達は新天地を目指して村を離れた。 愛知県境の南信濃でやっと永住の地を見つけ、五箇山圏で会得した炭焼きをその地に根ざし成功した。飛騨山脈を背にしながら70里、八尾・高山・信濃各地を移動し生活圏を築きながら南下して行った祖父母や母達兄弟の生き様の凄さに改めて胸を打たれた。訪れた村では家の一階に雪囲いを付け始めていた。昭和20年代位までは辺境の地であったろうと想像したら、荷物を一杯背負い幼い伯母・伯父の手を引いて険しい狭隘な山道を降って行く未だ若い祖父母の姿を見た。96歳で逝った母も村を訪ねたことは無かった。 昭和四年の戸籍謄本を頼りに在所を探したら有った。しかし世代も変わり付き合いの途絶えた今、先祖の墓所と本家で菩提を弔うことも躊躇した。総ては時の流れに逆らわず歴史と共に過ぎ去り忘れられて行く、それが有史以前からの人間の営みである。分っていれば日本国中みな親類だらけ、とても付き合い兼ねる。これが自然の成り行きで本来の姿かも、母の遺影にそっと一言「これで良かったかな・・」と。越中五箇山と火薬の原料・塩硝、信長公と鉄砲そして一向宗門徒との攻防、桶狭間古戦場の近くに住む私は戦国時代の歴史に心動かされる。 何れは利賀村に近い相倉集落も訪ねて見よう。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 2ページの「仲間と家族は宝ものの文中後半で、私は兄の趣味を紹介しました。日本の古民家を出来る限り忠実に模倣して、ミニチュア古民家(縮小模型)を作る趣味でした。いずれ完成したらホームページを作成して公開すると約束をしていた。兄は全完成を待たず逝去してしまったので約束は履行されていません。現物は兄宅の部屋や押入れ、物置に保管してある。結構な場所を占領している上、動かすにも手間が掛かるので、整理しながらの写真撮影が出来ない。
しかし短い闘病期間で旅立ったので、行動も趣味の仲間との交流も、全く家族は聞いていなかったのです。ましてや纏めて整理されていたアルバムを、どこのどなたに貸してあるのか分からない。アルバムを贈与するとは考えられず、未だに回収がされていないのです。私も一から知識を得ていかなければ現物を見てもさっぱり分からない。現時点ではこれ以上に趣味を増やす考えはない。亦、私の所有物でもないし、親類であってもそのケジメだけは厳正でなければなりません。だが調べて知ることぐらいは可能です。 図書館や本屋さん、ネットで知識は得られます。取りあえずどんなミニチュア古民家を作っていたのか、滅相でも北から南まで主な日本の古民家を調べて行きたい。こんなことで兄の供養になればありがたいと思っています。古民家の定義も分類もあるのかも分からない。萱葺きで囲炉裏があって土間や板の間があって、縁側もあるのかな?厩や蚕部屋はと疑問は際限がない。そして兎にも角にも集めたのが下の記事です。間違いかも知れず冷や汗ものですがご覧ください。 スポンサードリンク
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| スポンサードリンク |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
Copyright (C) TOPページに戻る All Rights Reserved |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||